「理不尽」は人を鍛える、「理不尽」はおもしろさでもある

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平尾誠二(元・ラグビー日本代表監督)

「自分だけ」と思い込むな

最近の若い人は理不尽に向かい合う経験を子どものころにしていない。経験したとしても乏しいから、ちょっと壁にぶち当たったり、自分を否定されたりする と、絶望的な気持ちになりがちだ。そうなれば、どうしても現実から逃げたくなる。せっかく見つけた仕事であっても、すぐに辞めてしまうというようなことが 起こる。
 あることをあきらめて、別の道や可能性を探すことは決して悪いことではない。そう考えれば、逃げ出すのもひとつの方法かもしれない。たくさんの選択肢の中からひとつを消去したということだから、進歩ともいえないこともない。
 でも、たいがいの場合、また同じことを繰り返すのではないだろうか。どんなところに行っても、多かれ少なかれ、理不尽な目に遭わされるからだ。そこに人間が介在するかぎり、絶対に矛盾が生じるからだ。
 とすれば、まずは理不尽な状況に耐えなければならない。そして、それを乗り越えていかなければならない。そこでこういう提案をしたい。
 「理不尽だな……」と感じた時には、こう考えてみたらどうだろうか。
 「そういう状況に置かれているのは、自分だけではない」
 「どうして自分だけがこんな目に遭うのだろう……」
 そう思ってしまったら、人間はつらくなる一方だろう。うらみつらみばかり募らせても、理不尽を乗り越える力にはならないばかりか、自暴自棄になりかねない。
 現実として、理不尽な目に遭っているのは決して「自分だけ」ではない。だから、こう気持ちを切り替えるのだ。
 「自分とはケースが違っているだけで、みんな多かれ少なかれ同じような目に遭っているんだ。おれだけが恵まれていないわけじゃないんだ」
 伏見工業高校の恩師である山口良治(よしはる)先生がこんな体験談を話してくれたことがある。
 先生が日本体育大学のラグビー部に入部した年の夏合宿のことだった。のちに日本代表に選ばれることになる先生だが、そのころは四軍にいて、ひたすら走らされた。合宿にはOBも来ていて、ようやくノルマを走り終わり、ひと息ついていると、罵声が飛んだ。
 「顔を上げんか、こらーっ!」
 昔の話だから水は飲ませてもらえない。ぶっ倒れた部員が水をかけられているのを見て、「いいなあ。おれも倒れよう」と思ったほどだったという。それほどつらかったのだ。
 「もう限界だ。これ以上は走れない」
 そう思った時、先生の目に大嫌いな4年生部員のすごくつらそうな顔か映った。大嫌いな先輩のそういう顔を見た先生は、とたんにうれしくなった。周囲の部員を見回すと、やっぱり全員が苦しそうな顔をしていた。その時、先生は気づいた。
 「そうか! つらいのはおれだけじゃないんだ……」
 周りを見れば、100キロを超える身体であえぎながら走っている奴がいれば、ケガした足を引きずりながら懸命に食らいついてくる奴もいる。
 「こいつらに比べれば、おれなんかなんでもない!」
 そういう現実に初めて気がついたのだ。練習がつらいかつらくないかを誰が決めるのかといったら、監督でもコーチでもない。自分自身だ。とすれば、自分の 気持ち次第で、練習はつらくもなれば、楽にもなる。自分の気持ちをちょっと変えるだけで、がんばれる。そこに気づいたことがきっかけとなって、夏合宿が終 わるころには一軍に上がっていた。

理不尽に耐えられたことが信念となる

長い距離を走ったからといって、ラグビーはちっともうまくならない。限界を超えるまで走ったからといって、スタミナのつき方はそれほど変わらないだろ う。その意味では非常に理不尽な練習だといえる。でも、そういう過酷な練習に耐えられたという事実は、その人にとって大きな自信になる。おそらく、山口先 生もそうだったと思う。
 最近は、練習が妙に科学的になったというか、「何のためにするのか」という目的と合理性を求あるようになっている。もちろん、それは当然で、必要なこと ではあるけれど、時にはそういうことを無視して、理屈抜きで猛烈な練習をすることも必要だと私は思う。苦しい時やつらい目に遭った時に、こう思えるから だ。
 「あれだけきついことに耐えたのだから、絶対に神様はおれを見放さない」
 「努力は絶対に嘘をつかない」
 「あの時のつらさに比べれば、なんでもない」
 自分の限界を超えるような苦しさやつらさを乗り越える体験をすることで、そういう信念というか、哲学か自分のなかに植えつけられるのだ。
 同じ言葉であっても、人から言われたり本で読んだりして、知識として知っているのと、自分自身で体得するのとでは、まったく違う。こうした哲学は、理不尽に思える経験をしなければ、なかなか血肉化することはできないものではないかと思う。
 その意味でも、理不尽に感じた時は、それをネガティブに考えずにポジティブにとらえることが大切になる。
 「今の状況は、自分を強くするための試練なのだ」
 そういうふうに気持ちを切り替えることができれば、同じ景色でもまったく違って見えてくるのではないか。
 「よし。だったらもう少しがんばって乗り越えていこう。そうすれば、新しい自分に出会えるはずだ」
 そんなふうに理不尽を前向きにとらえることができれば、打ち克つ勇気が湧いてくると思うのだ。

理不尽だからおもしろい

理不尽を前向きにとらえるためには、そこにおもしろさを感じられるかどうかも大きなポイントになると思う。そう、見方を変えれば、理不尽は「おもしろみ」ととらえることもできるのだ。
 その最たるものがラグビーだと私は思っている。ラグビーというスポーツは、基本的には「陣地取り」のゲームといえる。ボールをキープしながら前方に運んでいって、最終的に相手ゴール内にボールを置けば「トライ」となり、得点が入る。
 ところが、前に進むことを目指す陣地取りゲームでありながら、ボールを前に放ってはいけないのがラグビーなのだ。後ろにパスをしながら前に進んでいかなければならない。これほど矛盾を抱えているというか、理不尽なことはないだろう。
 加えてラグビーは、前にも述べたが、接触が多い格闘技としての面が強いにもかかわらず、柔道やボクシングのようなウェイトによる階級制をとっていない。 ラグビー日本代表は、ヨーロッパや南半球では標準の、1メートル90センチ、120キロクラスの大男たちと徒手空拳(としゅくうけん)で戦わなければなら ない。日本にとって理不尽なのは事実だろう。
 じつは、ラグビーにかぎらず、ほとんどのスポーツには理不尽がつきものだ。なかでもサッカーとかゴルフとかテニスとか、イギリスで生まれたスポーツにその傾向が強い。
 サッカーは得点を奪うことが目的なのに、人間の最大の武器といえる手を使うことを禁じているし、オフサイドというルールをつくったり、ゴールキーパーを 置いたりして、得点することをさらに難しくしている。ゴルフはもともと狙う穴が小さいうえに、わざわざ草むらや砂場や池や林をつくり、さらにグリーンに微 妙なアンジュレーション(起伏)をつけるなどして、小さなボールをカップに入れることをいっそう困難にしている。
 でも、だからこそ、スポーツはおもしろい。
 イギリスでは教育のひとつとしてスポーツが採り入れられており、そのせいか、とくに日本ではスポーツの教育的価値ばかりが指摘されることが多い。けれど も、じつはそれは後づけで、初めは楽しむためのもの、娯楽だったに違いないと私は思っている。そして、よりゲーム性を高め、楽しみを増加させるには、理不 尽なルールを設けたほうがいい――
そう考えたのではないだろうか。そうすると、プレーするほうも観るほうも、よりエキサイトするからだ。
 今の柔道は階級制を採用している。その意味ではどの選手もイコール・コンディションで戦うことができる。が、誤解を恐れずにいえば、「柔よく剛を制す」 との言葉通り、小さな者が大きな者を倒すことにこそ、柔道の醍醐味はある。体格差やパワーの違いという逆境を克服して勝つからこそ、喜びは大きいし、感動 を呼ぶ。それは観る側にとっても変わらない。
 ラグビーでいえば、かつての早稲田大学は、身体が小さく、才能にもそれほど恵まれていない選手が多かった。それでも、猛練習と創意工夫を重ねることで、 高校日本代表級をズラリと揃え、体格と力を前面に押し出してくる明治大学と互角の勝負をした。明治も真っ向から圧倒しようとした。だからこそ、早明戦はあ れほどの人気を集めたし、今も国立競技場をほぼ満員にするだけの魅力を放っているのではないだろうか。
 そう、理不尽はおもしろさでもあるのだ

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